猛烈な勢いでメモ ダッシュ

推敲してます。漫画とか。俳句とか。

こんな話かいた。

風vs空

 
空っていいな、って改めて思った。なんでもいいのだ。最後に空を持ってくれば。なんとなく、それっぽい感じする。いちおう。絵は完成する。ような気がして、ポエマーは空を見上げる。

  困ったら、空を見よ
     って言った詩人さんもいた

風派と空派のふたつがあるのかも。あらゆる答えは風の中に、という風派と。ただ空を見よ、という空派のふたつである。
 
 
  
  
  
 
 

  
  

不機嫌な受賞者の風景

評価されて嬉しい、とは言わないこと。反対に私に賞を与える方へ、かるく軽蔑すらしています、と態度で示すこと。

ときに文学賞の授賞式に現れる不機嫌な人がそうなのだが。
傍目には凄く分かりにくいと思うのだ。そんなに嫌で軽蔑までしておられるなら、受賞を断れば良いではないか。賞だけは貰ってといてやる、というのであれば、授賞式だけ欠席してもいい。そうしないで、わざわざ式典に登場し不機嫌な顔して、ただ私は不機嫌だ、ということだけを述べていくって少し変わってる。でも、なぜか、思い出したような頃合いに、不機嫌な受賞者は現れ、彼にスポットが当たるのだった。まるで、それが良いものであるかのように。

端から見ているぼくは少し失礼な感じもする。文学賞は言ってやって良いのではなかろうか。無礼な奴だな、と。文学賞はそうは言わないので、代わりにぼくが言ってやりたくなる。不機嫌なのは、こっちの方だ。

けれど聞くところによれば、この文学賞というのは雑誌の販売促進の一環として始まったもので、本当の本当に文学命、文学賞こそ我が生涯の夢、虹色のゴール!みたいな人が登場し嗚咽してもらっても、文学賞の方が困った感じになる気もする。
 
やっぱ文学うんぬんより、出版社さんの存在が大きいというか、編集者さんの要請と粘り強い交渉の結果、不機嫌な人も出てきちゃうのだろうな。編集者さんは先生にお願いするのが仕事なのだ。販売促進の好機となればなおさら。

……先生、お願いします、授賞式には出てください、不機嫌な顔しか出来ない? 結構です、先生、思い切り不機嫌して下さい、ちょいと場を乱すくらいの勢いでお願いします、話題になるっス、いや先生がそこに現れるってだけで話題もちきり、レジェンドってものです、不祥、担当⚪︎⚪︎も涙っす、もう落涙の滝っす!……とかいう編集者さんのすごい勢いに気圧されて、不機嫌な人は壇上に登場したのだ。
……不機嫌でいいのね、はいはい、得意ですよ、不機嫌な顔……と先生も結果的にはノリノリで不機嫌しておられたのだろう。

つまり、不機嫌な受賞者登場の背後には、作家さんと編集者さんの信頼または葛藤、友情の物語的なものが隠されており。職業的、友情の物語である限りにおいて、決してこれは表には現れない。しかし、こうした分業の体制がなくなるなら、不機嫌な受賞者を見ることもなくなるだろう。

もし次に不機嫌な受賞者を見ることがあったなら、その背後にある分業に思いをはせるのがいいと思うのだ。こうした不機嫌さんを見ることは、本当になくなるかもしれない、時代の趨勢によりそうなる可能性だって否定できない。と思えば。なんだか無礼な人だな、と思うより先に……良いものを見ました……って感慨に耽ることも出来るに違いない。不機嫌な受賞者は、最後の電車にも似ている。
 
 
 
  

まんが ハッピーハロウィン 


 
「魔女 空飛ぶ 箒 正しい向き」とかで検索したら。昔の絵などで、箒の穂先の方が進行方向になっている、こともあるのは、昔のひとが箒を馬にみたてていたからだよ、という話を読んだのだった。へえ、と思った。
あと、ハロウィンの1コマ漫画をみてたら、ルンバに乗って飛んでいく魔女の絵があった。おもろしろかった。
 
 
 
 

こんな話を書いた

昼ね王クマイセン4世

その日、王さまはお城の中を歩いて、絵を見ていた。
その廊下には3枚の肖像が掛かっていた。
左からクマイセン1世、クマ勝利王とも呼ばれており、クマ王国の祖だ。
だが、もとはといえばクマ染料と風車脱穀で財をなした商人という記述もある。
次がクマイセン2世、この居城を作ったひとで、本当は造園が好きだったらしい。
最後にクマイセン3世、彼は盆栽好きで知られ、蔦植物の盆栽に生涯をかけた。
くま王国においては、薔薇愛好家とラン愛好家と椿愛好家が
血で血を洗う抗争を続けており、
クマイセン3世はそのいずれにも加担しないようにしてたって話もある。

現王クマイセン4世は、昼ね王とも呼ばれている。
昼ねが好きだったからである。

角を曲がると、また先王クマイセン3世の若き日の肖像があった。
これはお見合いのための絵だったそうで、この絵の出来があまりに良かったので、
彼は養子に迎えられたのだった。
先王の結婚式、お葬式の行列、お祭りの絵、などなど絵がつづていた。

昼ね王が気になったのは、絵の大きさだった。
部屋の大きさや天井の高さに合わせてか、これまた色々なサイズの絵があった。
一番、大きな絵は大広間に飾られた昼食の絵で、壁の一面を完全に占領していた。
小さい絵は、子供の頃に見せられた豆絵と呼ばれるもので。

現在は地下牢、という名の屋根裏の第二書庫に所蔵されている。
屋根裏の部屋が地下牢と呼ばれる理由は、昼ね王が幼少のおり、
折檻のために閉じ込められた部屋でもあったからである。
昼ね王はここに半日に幽閉されては、やはり昼寝をしていた。

豆絵は絵本の挿絵のような連続した絵画で、絵葉書ほどの大きさ。
皇帝学の教材に使われたものだった。
話はつまらないが、絵は面白かった。
昼ね王は壁に掛かった絵を眺めつつ、その豆絵のことを思い出していた。

……つづく

競馬場外周ずっと曲がり道

競馬場外周ずっと曲がり道

いちおう競馬場と呼ばれている場所の外周に沿った道を行くことになって、その道がずっとカーブしてました。……という句である。
 
 
 
 
 

「私の絵は下手だ」問題

絵の上手下手の話をすると、自分の絵の下手さも話さなきゃみたいな感じになって、ぼく的にはつらいものがあるので、思わず顔をそむけたくもなるのだが。とある人がこう呟いていた。

……絵を描けるひとはいいな。さっと一枚の絵を描いて、いいね、がいっぱい。こちらとら頭をひねり気の利いたつもりのことを幾ら書いても、なんにもナッシングだよ、いやになっちゃう、絵を描けるひとはいいな、ははは……
ぼくは鼻をひくひくさせてしまう。

それは、いわゆる絵師さんって呼ばれるひとたちの話かもしれない。ぼくも描いているけど。描けば、いいね、の嵐なんてことはついぞない。つまり?ぼくも描いてはいるのだが。描けるひとではない。この違いは微妙なようでも、絵を見れば一目瞭然である。端的にいえば、ぼくは拙い。

ああ、ぼくは拙いな……ということをぼくが書いても、あっそ、って感じで。その後に何の展開もないのだ。

また、こんな話も読んだこともある。
その人によると絵が上手い、というのにはふたつのパターンがあり。ひとつは理屈も何もなく芸術は爆発だ的に奔放な線をひき、地域の展覧会であっさり金賞をとっちゃうような、絵がうまい、である。もうひとつは手先が器用で、正確な線がひけるので、デッサンとかを描くのが苦にならないタイプで、私はこのタイプの絵が上手である。

で。

イラストが描いてあって。 デッサンタイプの私が、芸術は爆発だタイプの子の後ろ姿を見てる。私は彼女みたいなタイプの方が良かったなあ。……(嫉妬の眼差し)……誰しも自分にないものを求めてしまいますね、的なお話だと思うのだが。またぼくの鼻はひくひくする。
おっしゃるとおり、その人のイラストが上手で、線も確かな感じで、スッひかれてて、これは手練れですな、的雰囲気がぼくにも分かったからだ。簡単にいうと、彼女が求めるものとは少し違ったかもしれないけど。彼女の言うとおり彼女は「絵が上手い」のだった。私はふつうに絵が上手い、と書いてそこになんの衒いもない。そのとおりなんだけどー。……私は絵がうまい、それは確かなことだが、わたし程度に上手い人などいくらもいますよ、ぜんぜん大したことではないです、私の嫉妬対象は別にあります、とは。ぼくには書けないことだ。

それはたんに、ぼくが下手だからで
  ……それはもう分かったから、いいんだけどさっ。

「私の絵は下手だ」という話は、あまりしない方が賢明である。なぜって、私の絵は下手だ、と書いても、ぽつねんとしてしまうから。ぼくの場合はそうなるけど。こういう面もあるかもしれない。

私の描いた絵と私の絵の話は、自己言及的?にもなっており、それがいささか複雑で。他人の目から見たとき、この言及は肯定すべきか、否定すべきか、どちらが書き手を肯定にすることなり、より社交的なのか、読むひとにとって判断に困る……という一面である。
私の絵の話はなんか、めんどくさい。