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小説「事前警告」について

トーベ・ヤンソン短篇集

トーベ・ヤンソン短篇集


 
ふいに不幸な女のお話を思い出す。名前はフリーダ・アンデンション。彼女はトーベ・ヤンソンが書いた小説の中の人物だ。「おわかりだろうか」と小説には書かれている。

おわかりだろうか、フリーダは良心の呵責にさいなまれたあげく、だれにも手の施しようのない強迫観念にとりつかれてしまう。村でなにかがうまくいかないと、自分のせいだと考える。村の不運ではたりないとばかりに、新聞で報じられるあらゆる事件について心を痛める。当然ながらフリーダの苦悩の種はつきない。

世界のあらゆる不幸を背負っているという強迫観念に取り憑かれた女、それがフリーダだ。主人公は彼女の考えを愚かしいものと考える。けれどフリーダは主人公の言葉に耳をかさない。「なかなか信じてもらえないだろうが」と語り手でもある主人公は述べる。

なかなか信じてもらえないだろうが、フリーダの誤った現状認識がどれほど愚かしいものであったにせよ、彼女にとってはすべてが冷徹な現実にほかならかった。説明や説得は見込みがなく、きびしく咎めても効果はない。いまとなればフリーダの誤りをうけいれるべきだったのかとも思うが、

なぜフリーダの誤りをうけいれるべきだったかといえば、彼女の妄言が魂の言葉であったからだと思う。先回りして結論めいたことを書けば「魂が話すとき、理性が異論を唱えるのはなにか無作法なこと」になってしまうのだ。

村の悪童どもにとってはさぞや格好の餌食だったろう、とお思いだろうか。とんでもない。子どもはみんなフリーダが大好きだった。不運な事件が起こるや彼女のもとに駆けつけ、悲惨なディーテールを聞こうとした。生半可でない想像力の持ち主だったし、すばらしい語り手だったからだ。
子どもたちおかげで彼女はずいぶん救われたと思う。たぶん予兆によって救われる以上に。

上に書かれたこと以上の救い?この小説のまとめもない気もするが、もう少しだけ引用すると

気持ちのよい夏の夕べ、わたしはフリーダの戸口の階段に腰かける。今後なにか起こるかを彼女はわたしに説いてきかせ、避けがたい惨劇について真剣に警告する。その脅威はじわじわと近づき、ついには大災難という形で姿を現す。そしてそれにはかならず理由というものが、原因というものが存在するのだと。
「それがほかならぬあなた、というわけよね」とわたしは皮肉たっぷりにいう。
「そうだよ」とフリーダはいい、わたしの手をとる。「たとえばね、金曜の朝、大きな白鳥が飛んできて台所の窓を嘴で三度つついた。するとどうなったと思う?カルフォニアで地震が起きたのさ!」
わたしはこむずかしい本を読みあさっている時期だったので、自己疑視だの誤れる帰属意識だのといった分析をくりひろげてみたが、ああ神さま、フリーダはわたしをやさしくみつめ、頭を振っていうのだった。「えらく勉強しているのね