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セラピストしてのウィトゲンシュタインだってぇ〜?

ウィトゲンシュタインと精神分析 (ポストモダン・ブックス)

ウィトゲンシュタインと精神分析 (ポストモダン・ブックス)

B6の単行本。121ページ。カバーは白地に水色のアクセントと入った爽やかな印象。持った感じは軽く、寝転んで読んでも肩こりしない感じ。製本の仕方も──なんていうのか知らないけど──普通によい。紐もついてます。
内容は、ウィトゲンシュタインから見たフロイトということらしい。ぼくはなんとなく──つまりなんの根拠もなしにだけど──ウィトゲンシュタインフロイトなんか嫌いっていうか、「精神分析」とかいうものについて評価してなかったと思っていた。だから、この本もウィトゲンシュタインフロイトをこてんぱんにやっつけている本だろうと勝手に思いこみ買ったのだが。それはまったくの間違いであった。ウィトゲンシュタインフロイトの著作に親しみ高く評価もしていたみたい。以下はこの本の4ページあたりから引用。

ウィトゲンシュタインは、フロイトの仕事に影響を受け、自分自身の仕事も治療(セラピー)だと考えていた。初めてフロイトを読んだとき彼は強烈な印象を受け──批判的な意味でだが──次のように書いた。
   
  きわめて明晰に思考する力がないと、精神分析は危険で邪悪な行為であり、
  百害あって一利なしと言うしかない。

ウィトゲンシュタインをして「邪悪」といわしめた「精神分析」ってやっぱ凄かったのかも、とも思うけど。それよりウィトゲンシュタインの著作というかノートというか哲学的な営みが、他人の生活様式の変更を迫るようなものとして想定されていたというのは、ちょっとした驚きだった。「論考」の印象が強烈すぎるからそう思っていたのかもしれないけど、別にバカには分からなくていいんだけどさ、と言外に云っているような孤高な人というイメージが強いと思うのだ。孤高というからには他人をよせつけず、またとくに他人の理解も求めず、他人の生活様式についても彼は興味など持っていなかったじゃないのかな、という気がしていたのだ。著者は「フロイトウィトゲンシュタインの関心の中心にあるのは、錯覚とそれが及ぼす害である」とし、その取り組み方はおおいに違うけれど彼らの仕事はいわば人々が抱える「病」を標的としており、その悩みの解消を期待してのものだ、と言っているようだ。

時代の病は人間生活様式の変更によって癒される。そして、哲学的問題の病は、個人が発明した薬によってではなく、もっぱら思考法と生活様式の変化によって癒された。(p7〜p8から引用)

哲学においては、われわれは思考の病を断ってはならない。それは自然な経過をたどらなければならない。そして、ゆっくりした治療が最も肝心なのである。(p25──)

哲学者は解放の言葉を、すなわち、今までわれわれの意識を漠然と圧迫してきたものをついに把握させてくれる言葉を、見つけようと奮闘する。(p13──)

これらはウィトゲンシュタインの言葉らしい。ほとんど「哲学者」=「活発な病人」である。ともあれ忍耐強い、セラピストとしてのウィトゲンシュタインというイメージは、ちょこっと新鮮。

哲学者は、自分の混乱の核心が見つからない限り、いわば無力感の中で大げさに話し、叫ぶ。(p40──)

ヽ(`Д´)ノ ー!