猛烈な勢いでメモ ダッシュ

推敲してます。漫画とか。俳句とか。

AHのK-on 批判は同じJK好きの同族嫌悪……という感想もあったようです。

吾妻ひでお先生の「けいおん!」批判に対して、ひでお先生を再批判するみたいなことを書いてしまい早くもというか案の定というか、反省している今日このごろ。先生がここを読むことはないだろうけど、吾妻先生ごめんなさい。それで気になって眠れず、改めていろいろ検索してみたら吾妻先生の「けいおん!」批判は同族嫌悪(DK)ということを書いておられた方もいたようです。なんか納得しちゃった。
考えてみると「けいおん!」は女子高生たちの学園生活を描いたアニメで、そこにいわゆるところのJKの愛らしい姿や仕草が描かれているなら、吾妻ひでお(=AH)の好みでない訳がないのだ。主人公の平沢 唯なんか、ほんわかしたキャラのためか、ちょっと太め?みたな感じするし、これで脚が太く描かれていたなら、先生のストライクゾーンど真ん中だったかもしれない。とくかくJKが動いて、しかもその場にこれといった葛藤がないって、まさに先生の理想だったんじゃないかな。実際ぼくの目には「けいおん!」のJKも「ひでお日記」のJKもそう違った場所にある気がしないのだ。だとしたら「不気味、そんなに現実イヤなのか」という先生の嘆き嫌悪は、対象と同時に自らへ向けられたものだったかもしれない。
昔からそうであった訳ではないだろうけれど。吾妻ひでおとは、逃避する日記を描くマンガ家なんだ。なにから逃避してるかといえば「現実」以外ではないのだけれど、ときどき吾妻ひでおにとっての現実性とは原稿を描くというまさにそのことなのだ。そうだ、マンガの本質が逃避であるなら、吾妻ひでおは自分にはそれしかないというマンガ=逃避からも逃避してしまうような筋金入りのヘタレさんなのだ。逃避からさえ逃避する日記は現実なのかな、という問いかけはたぶん、マンガ史的にはありふれたものだろう。けれどそれをなんと呼ぶにせよ、もう笑ってしまうしかないものとして「失踪日記」という本は世に出たのだろう。
吾妻先生はなにも時代の先端を走ろうとしてそうした訳ではないだろう。善悪はともかく先生は先生の個別性を生きていたつもりだったろう。でも、ふとテレビに目をむけアニメを見たら自分と、とてもよく似た視点がそこにあって、吾妻先生はギョッとしてしまわれたに違いない……と想像するけど全然ちがうかもしれない。
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失踪日記

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 AHのK-on 批判は同じJK好きのDK……という感想もあったようです。