猛烈な勢いでメモ ダッシュ

推敲してます。漫画とか。俳句とか。

こんな話をかいた

「にゃ」先生

語尾に「にゃ」をつけてたら、キモがられた……という話を読んだのは先日のことだ。
いい年こいて「にゃあ」はないだろ、って意見も分かる。コスプレの猫耳とかを思い浮かべるから良くないのかも。ただ「にゃ、にゃ」言いたいだけなのかも。そういえば、むかし。

語尾に「にゃ」をつけ専門的なところを解説して下さる親切な方がいた。にゃ先生。ある時このにゃ先生のブログのコメント欄で、なんやかんやあって。議論が白熱し、ひとつの極論が提出され、互いの主張が真っ向からぶつかりあい……むむむ……ってなって突然。にゃ先生がこう仰るときがきたのだった。
「これはもうダメかもしれませんね」
……私には到底うけいれがたいことです、真面目な態度で反論し決別も辞さぬ、という決意をここに表明しますよ。……そう仰って語尾から「にゃ」が消えたのだった。
 
「にゃ」がひとつの方便として選ばれた語り口なら、文脈や場面によってそれを変えるなど当たり前のことではないか。何時いかなる時も「にゃ」を貫いてこそ真の「にゃ」者であり、「にゃ」をやめた時「にゃ」者は死んでしまうのだ、と考えた訳ではないけれど。少し淋しい出来事ではあった。
 
「にゃ」では語れないことも当たり前にあったのだ。身近な方の訃報に接した時もふつうに難しいかな、とも思うし。
ただ「にゃ」者は、「にゃ」の許される領域を押し広げようとしている……のかもしれない。たとえキモいと言われようと。あらゆる事柄、謝辞、賞賛詞、賀詞、感嘆詞、今日は、からサヨウナラまで、「にゃ」を以てすまそうと、