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パン屋再襲撃

パン屋再襲撃 (文春文庫)

パン屋再襲撃 (文春文庫)


この本はいま手元にない。だから記憶で書くけど。「パン屋再襲撃」という小説について。

たしか缶ビールを飲んでいる主人公がいて女がいる。夜中。ふたりは突然、ごはんを食べても癒されない奇妙な空腹感に襲われるのだった。女はこの空腹感にはなにか理由があるはず、と考え主人公を問いつめる。主人公もなんとなくだけど、この空腹感には既視感があって、むかし友人とパン屋に強盗に入ったころ同じ空腹を感じたかもと言う。さらにちょっと奇妙なのはパン屋を襲撃したときパン屋のおやじが、なにかのオペラだったか?レコードを聞いてゆけ、そうしたら強盗するまでもない、ジャムパンでも、フランスパンでも好きなだけ持ってゆくがいい、みたいなことを述べる。強盗犯である主人公と友人はその提案を受け入れおとなしく音楽を聞き、彼らのパン屋襲撃は終ったのだった。主人公は回想の終わりに、あの音楽観賞も労働といえばいえ、われわれは強盗ではなく音楽鑑賞という労働とパンという物品を交換しただけかもしれないが、みたいな感想を述べる。

それだわ、と女は言う。なにがそれなのかはよく分からないが。こっちには思い当たるふしはないのだから、もう一度、パン屋を襲い強盗を完遂せねばならい、と主張する。で。彼らは強盗の装束を整えるが残念ながら開いているパン屋がなかったので、24時間営業のハンバーガー屋に押し入り、ハンバーガーを強奪するのだった。

小説の意味は曖昧だが。ふつうのそれとは少し違う飢えと労働がテーマになっているのは間違いないと思う。パン屋を再襲撃することでイベントを終了し──それは交換の原理には回収されない──彼らはその飢えを癒したのだけれど。この襲撃はいわゆるリアルな問題ではなくて、どこか形而上学的というか演劇的で、意味を取り扱うものだったように思われる。つまりパフォーマンスだ、とぼくは思うけど。パフォーマンスへの欲求が胃袋を直撃し、当人たちにもどうしようもない緊迫したものして描かれ、奇妙な必然性みたいなものを感じさせるのが面白いと思う。この名指しがたいパフォーマンスへの飢餓感を条件づけているのは、ゆうまでもなくリアルな意味での飢餓の喪失と、この情報化社会とかいうものの豊かさだろうけど。そうした説明をしたからといって切迫した空腹感が癒されるわけでもない。そんな話だった気がする。