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エッシャー 上と下

エッシャーの作品に「上と下」という絵(版画)があって、見ていて飽きない。その不思議さは絵を見れば 一目瞭然 のことで、わざわざことばで説明するのは虚しくなるほどだけど。あえてトライするなら。
画面は上から見下ろした視線の作画と、下から見上げたときの作画が、一枚の絵の中に総合されるように描かれている。画面の下の方から見ていくと、まずタイルを並べたような歩道があり、手前のほう、画面右下に位置する場所には地下から上ってきてるらしい階段がある。ここから画面の奥の方に目をやれば、高い日差しに照らされた通りがあり、椰子らしき木が高くそびえ、音も聞こえないような町並みがあって、空へと続いているが。いま、注目したいのは、やはり階段。
はじめに述べた地下からの階段を上りきると、アーチがあって、それをくぐるり、90度に曲がれば、また階段があって、その階段の途中には、ひとりの少年が膝を抱え座り上の方を見上げている。彼の視線をおえば、階段を上りきった、二階の部屋の窓に少女が顔を出していて、彼女は少年を見下ろしている。見上げる少年の視線と、見下ろす少女の視線は、たぶん一直線で結ばれている。もし少年が立ち上がり、階段を上り、踊り場でターンして、少女のいる部屋のドアを開けば、彼は少女の場所にゆけるだろう。それは絵を見れば分かることで、そうした空間、位置関係が、絵にはきっちりと(つまり遠近法に従って)描かれている。
少女のいる部屋は二階に位置し、その柱のようなこの建物は三階建てだ。少女がいる窓のさらにその上の方には、ドーム状の屋根があるが、これはこの階段が室内にあることを意味しない。階段は半ば外部にあり、ドーム状の屋根に被われてはいるが壁では仕切られていない。ともあれ、少女の住む建物は三階建てで、見上げるパースがきつく、建物は空に向かって反って描かれている。その空を分割する、屋根の一部はタイルで被われており。これが最初に述べた歩道にもなっている。ちょうど絵の中央に位置するのだが、この箇所はいわば、床と天井、ふたつの意味を担っている。
この箇所の眺めは、ほぼ真上に見上げているか、真下に見下ろしているか。そのどちらかで。タイルの見た目も、ほぼ真四角に見える。

これまで述べてきた絵の下半分が、仰視の眺めだったなら、これから述べる上半分は俯瞰の眺めへと移行する。タイルの並んだ歩道があり、地下から上ってくる階段があり、アーチをくぐり、曲がるとまた階段があって、その中ほどには少年が座っていて、二階の窓から顔を出している少女が彼を見下ろしている。建物はやはり三階建てで、眩しい通りがあって、椰子の木があって、町並みの向こうには空が見える。これらの眺めを、一望のうちにぼくらは見下ろすことが出来る。
ところで、最初、絵の下半分で見上げていたとき、ぼくらの視点はどこにあったのだろう。その場所も俯瞰図の中には描かれている。というか絵の中を指して示すことが出来る。ぼくらは──仰視の眺めと俯瞰の眺めを同時的なものだと確信しているので──そこにはだれも描かれてはいないけれど、このへんが、目のあった場所?というアタリをつけるのは、少し奇妙なことだ。

つまり絵を見るぼくらは、エッシャーが作図したパースに従って、ひとつの視点に立っていたのだけれど、俯瞰してみると、そこには誰もいない、というドッキリもこの絵には演出されている気がする。純粋に作図の問題として、エッシャーはこの絵を描きはじめた──とぼくは思っているけど──このドッキリ感はそうした問題からは離れ、ちょっとミステリアスで、寓話的に意味深だ。比喩的に述べれば、エッシャーは見る者をこの絵の中に招きいれ、その立ち位置までを示すけれど、招かれたぼくらは鏡には映らない小人のようだ。──いや、視点は作画のためのまさに点に過ぎず、それが描かれることはない、ということに過ぎないけど。><

また純粋に作図の問題であったというなら、別に少年や少女の登場も必要ではなかっただろう、とも思う。実際この絵から少年と少女の姿を消しても、この絵で二重に描かれた眺めの不思議さはなんら影響を受けない。けれどエッシャーは少年と少女を描きくわえることで、見上げるという動作と見下ろすという動作──その二つを一枚の絵の中に同時に示すこと──がこの絵のテーマなのだ、と端的に示した。タイトルは、「上と下」(High and Low)になっているけど、より動詞的に「見上げること、と、見下ろすこと」としても良かったと思う。


http://www.allposters.co.jp/-sp/-Posters_i1311505_.htm 参照