猛烈な勢いでメモ ダッシュ

推敲してます。漫画とか。俳句とか。

訃報

ニュースのページを開けば、だれかが死んでいる。順番なのだし、事故だっておきるし、ともかく人は死ぬのだし、いずれ誰もが次にくる人のためにその場所を譲らなきゃいけないのだし。──というのは一般論にすぎないだろう。記事はそれぞれに死んだ人の固有性を伝えてくれる。今朝もニュースのページを開くと訃報があった。プロレスラーが試合中にバックドロップをくらい、そのまま死んじゃったらしい。それから「小悪魔ageha」という雑誌で活躍していたというカリスマモデルさんの訃報。こちらは脳出血だそうだ。
訃報記事には訃報記事独特の熱みたいなものがあって、その熱にあてられると、ぼくはなにか一言のべたい衝動にかられる。さして彼らをよく知りもしないのに。──というより人は、あらためてその死者との関係を取り結びたい、と思って何ごとか述べたくなるのかもしれない。だから、訃報に接したひとが個人的な想い出や思い入れから、彼らを想起しようとするのはもっともなことだ。
ここでぼくが思い出すのはやっぱ、ブロティーガンのことかな。リチャード・ブローティガンの訃報は詩の雑誌で読んだ。それも詩人の死を悼む詩という形で。あら、ま、って感じ。出来ることなら新聞の訃報欄で、ぼくはそれを知りたかったなと思った。なぜかというと、ブロティーガンの小説にそんな場面があったのだ。ある寒い朝、コーヒーを飲みに街に行くと、新聞にヘミングウェイの写真が出ていて、ヘミングウェイがどうかしたのかなと思っていると、それはヘミングウェイの死を知らせるものだった、という場面が。主人公はそれと知らず、ヘミングウェイなしの世界に生きていた、自分の時間について考える。つけ加えていうと、ブロティーガンとヘミングウェイはアメリカ文学というよりは魚釣り文学という形で、より強くつながっている。