猛烈な勢いでメモ ダッシュ

推敲してます。漫画とか。俳句とか。

こんな話を書いた

花壇防衛戦
  
ふかふかの土が盛られた我が花壇は古レンガ仕切られ、丸い石が並べられている。積まれたレンガは城壁で、石は城を守る衛兵のようだ。敵は野良猫。猫の奴も、ふかふかの土が大好きで。隙あらば自らの閑所にせんと闇に乗じてやってくる。正直いって頭にくる。野良猫の、すました足取りを邪魔するために丸石衛兵は必要なのだ。しかし、そろそろ花を植えねばなるまい。猫に快適な座り心地を与えないために。
 
 
雨音 
 
学校では主に雨音を聞いている。雨音を加工し音符に置き換えると。何者かになれるのだ。
 
音楽鑑賞をしてチケットを貰った。チケットをパンに交換して口にいれるのが、お仕事だ。良き労働者は音楽のレビューを書き、パンの味の感想を述べる。もぐもぐ。
 
春を売るお店で春を買い、売り子さんにお説教をした。
「何時までもこんな商売を続けていてはいけないよ」
売り子さんは微笑んだ。
「ありがとうございます、売り子にも気をかけて頂きご配慮感謝です、いずれは仕事を選び冬にも備えるよう精進いたします」
良いお説教が出来て嬉しい。何かしらの義務は果たしたようで。
 
 
 
 
 

こんな話を書いた

作家と世界の崩壊
 
お茶の時間にも、クマは悩んでいた。久しぶりに漫画を描こうとしたら、ペンが重かったのである。いったい何トンあるのだ、というほどに重く、とても持ち上げる事など出来なかった。一日描かないと、ペンは一グラム重くなり、二日描かないと二グラム重くなり、三日かかないと四グラム重くなり、倍々で重くなると言われている。いったい何日描いていないのか、クマは考えたくなかった。こうしてる間にもペンは、ねずみ算的に重くなり。いずれはペンの質量は空間自体を沈め始めるだろう。ペン型ブラックホールの誕生である。ゆえに作家がもう一度、ペンをとるのは真に英雄的なことなのだ。……と、クマはウサギに語った。
 
 
 
 

「ヘビイチゴ」と「宵待草」

蛇苺には思い出がある……と書いて。子供の頃に見た小さな赤い実や、散歩で出て見かけたそれが、確かに「ヘビイチゴ」だったのか?不安になって検索してみたのだが。よく分からなかった。ただ子供時代、我々はその実を指して「蛇苺」と呼んでいた、くらい事でよいのだが。
 
それで「宵待草」のことを、ふと思った。「宵待草」は竹久夢二の詩で明治45年、雑誌「少女」に発表され、後に流行歌にもなったらしい。けれど「宵待草」という草は植物図鑑にはなく、「マツヨイグサ」の言い換えでしょう?って感じらしい。これも竹久夢二はその花を「宵待草」と呼んだ、でいいと思うのだが。
  
それより「宵待草」は実在した女性との逢瀬があって、という話を読み。ふむ。大らかだな、って。なんとはなしに思った。

竹久のことについては寡黙だったが、尋ねられると笑って短く応えたという。晩年はあまり外出することもなく、大きな虫眼鏡で日がな「リーダーズ・ダイジェスト」を読んで過ごしたような女性だったという。

というのが面白かった。
 
  
宵待草 - Wikipedia
 
 
  

こんな句をよんだ

庭に葉っぱに斑入ったドクダミが生えている。赤シソやクローバーやシダも少しだけ茂っている。苗を買ってきた訳ではなくて、いつの間にか生えていた感じなのだが。見つけると掘り返し、場所を移したりもしてる。なんだか気楽で楽しい。
散歩に出て、コンクリートの割れ目で生っている蛇苺を見た。蛇苺にも子供時代のささやかな思い出があって。少し欲しいなって気もするが。掘り返す訳にもいかず。蛇苺も知らない間に生えてくれたらなあ、って思った。
 
 知らぬ間に道を渡って蛇苺
 
 
 

こんな話を書いた

カーネーションを飾った。仏壇の引き出しから古い眼鏡が出てきた。かけてみたら鮮明に手のひらが見えた。試しに新聞を開くと、小さな文字まで読めた。陽だまりで身を屈め、しばらく文字を追い目頭を押さえた。少しだけ度が合っていないようだった。眼鏡を拭き、元の引き出しに戻した。
 
 
 
 
 

こんな句をよんだ

雨の街を歩いた。銀行や新聞社のある通りは官庁街にも似ており、広い歩道は静かだった。目の悪さも手伝い行く人の個性は失われ、イラストに描かれた点景のよう。コンビニの前で傘をさしたまま煙草をふかしている人もいた。

 五月雨眺めて滲む煙かな


花屋の前を通ったら紫陽花とカーネーションが並んでいた。そしてビアガーデンの看板を見た。

 地下二階ビアガーデンは夏の季語
 
 
 
 
 

こんな話を書いた

ごめんなさい

ごめんなさい、と言って怒られた。謝らないで、と。
「ごめんなさい」
「また」
 
「ごめんなさい」と口にすると、その事を怒られる。私の卑屈さが指摘されるているのか。奴隷よ、立て、自らの足で、と鼓舞されているのか。
「提案がある。ごめんなさい、という代わりに。ありがとう、って言えば」
親切な方だ。私の「ごめんなさい」の上に旗を立て、威張りんぼするのが嫌だったのかも。

「ありがとう」
と口にして考える。こうして私は変わるのか。口癖。ささやかな習慣の変化から、ささやかな変身が起き、私の性根も変わるのかな。けれど私は暗く卑屈な上に頑迷で、私は私の部屋に吹く風を好まない。ただ嫌だ。貴方が変わればいいのに。私の「ごめんなさい」を聞くたびに顔をしかめるのをやめて。私の「ごめんなさい」を「ありがとう」という響きに聞く耳を持てばいい。
 
 
 
 

こんな句を詠んだ

先日。スターバックスに行ってコーヒーを飲んだ。お店の前にはあまり手入れをされていない植え込みのスペースがあって。ドクダミが茂り、たくさん花をつけていた。午後の日差しに。なんとなく。いいなあ、と思った。
 
植え込みに咲く十薬や珈琲を飲む
 
 
 
 

こんな話しを書いた。

労働の勝利
 
先日、植えたトマトに花が咲き、もう青い実を結んだ。この成果を私は勝利と呼ぶ。電撃的大勝利である。花壇の下には地下六十センチから、七十センチの縦穴を掘り軽石を詰めた。局地的にだが水捌け超良好の地なのだった。地下から出てきた土には石灰を撒き、天日干しをした。篩にかけて小石を取り除き、腐葉土をどっさり混ぜて。古レンガで仕切った花壇を盛ったのだった。遅効性の肥料も少しだけ混ぜて、買ってきたトマトの苗を植えた。この大勝利は初めから約束されたものだった、といえよう。
正直、トマトの収穫にはあまり興味がない。実が実れば、それは採って食べるけど。虫もきちゃうし。それより土だ。予備役的な花壇をまた別に作っていて、ふかふかの土が準備されている。我が精鋭の黒土たち。それだけで何か満足で。別に何も植えたくないのだった。